摘要
近代東西思想文化交流史において、東洋の伝統的精神を積極的に西洋に発信していた知識人たちがいた。本論は多大な国際的影響を持っていた代表的な知識人であった新渡戸稲造と辜鴻銘の東西文明観を対照しながら、文明の融合を目指す人文的理想、さらに本国のイメージを構築する際の問題点の異同について考察する。「文明非文明」という図式は両者の東西文明観の中核となっていたが、新渡戸稲造は西洋キリスト教文明の「被告人」の立場に立って、日本にも武士道精神のようなキリスト教文明と匹敵できる道徳体系があるということを証明しようとしたのに対して、辜鴻銘は反近代化の立場で西洋の近代化文明に疑問を投げかけ、中国の伝統的儒教に未来の道を求めようとした。