摘要
1はじめに平岡敏夫(1982:185)が「透谷と樗牛」で指摘しているように、明治浪漫主義を代表する人物として、明治二十年代に透谷を、三十年代に樗牛を考えるのは文学史の常識であろう。これに対し、北川透(1977:259)は「高山樗牛論」の中で、浪漫主義という「先験的な分類は便利であるが、時には実体を見失わせる。その先験を捨て、二人の思想の実質に即してみれば、これほど相反する存在もない」と、まるで対照的な透谷と樗牛の像を見いだした。
基金
日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費16J07099)による研究成果の一部である。引用にあたり、旧漢字は現行のものに改めた